2017年04月20日

「内なる子供」と向き合うはなし 1

自分の話をしよう

自己肯定感が底辺以下だった
あの頃のわたし。

小学校のころ、心の中で何度呪いの言葉を自分に投げかけただろう。
何度も何度も自分にたいして「デリート」したい気持ちがあったわたし。
ヒトに拒否されて、ショックで、さびしくて、恥ずかしくて、かなしくて、孤独で、
誰かに助けてほしいのに、どうしていいかわからなかった、
誰かに気づいて欲しいのに、声に出せず絶望していたわたし。
仲間に入りたいのに、声が出せなかったわたし。
孤独は嫌なのに、独りでいた私。

嫌な記憶は思い出したくない、記憶していたくないのだ。
それがあると、つらくて生きるのが苦しいから。
すぐに忘れていたら楽なんだ。


すぐに忘れるのは自己防衛の一つ


自己肯定感という言葉がある。
自分を認めてあげられるか、大事にできるか、褒めることができるか…

これは子供のころ、成長の過程において「人に認められる」経験の繰り返しで養われる。

この国では、またはひと昔前では、親が自分の子供をそうそう褒めるなんてありませんでしたから。
認められる経験などはそうそうあるものでもなく、
そうそう私の「自己肯定感」が育つこともなかったのです。
逆に、この国では控えめであることが美徳とされてきましたので、子供や妻を褒めるというよりは、
「へりくだる」ことが多かった時代でした。

つまり「自己肯定感」は希薄な状態で「わたし」は成長していくわけです。

なんで、じぶんで自分を消去したかったのかな?
自分がものすごく醜くて、なんの価値もないと思っていたのかな?

なんでかな???

記憶のない頃の話
赤ちゃんの時、施設に入っていたんだって。
これは私の中には記憶がない。親に聞いた話。
ちゃんと迎えには来てくれていたというから、ここにはわたしの傷はないのかな?
でも別離はいやだったろうな。

赤ちゃんは表現方法が赤ちゃんなだけで
心は大人と変わらないってわたしは思っている。
 たとえば、その環境が快適か、不快か
 投げかけられている言葉が良い言葉か、嫌な言葉か
 投げかけられている視線が良いか悪いか
 痛みとか、気持ちいいとか
 大人と同レベルにわかっている。

と考えると…
よみがえる記憶
あの時おしりふきが冷たいのは嫌だったなとか
おきあがりこぼしのビニールおもちゃで遊んでて、うつ伏せだった。
ごろんと寝返りした拍子に障子のかどに頭をぶつけてものすごく痛くて、大泣きしたこと。

この記憶はわずかであんまりたくさんのシチュエーションは思い出せない。
アルバムの写真を見て、思い出したわずかな記憶です。

ヒトの記憶はやはり…どこかの引き出しに折りたたまれているのでしょう。

何かの刺激で、その引き出しが開くみたいです。
記憶ってそんな感じ。

気功の先生から聴いたところによると、人の記憶はあいまいなところがあって、
自分に都合よくしょっちゅう改ざんが行われているそうですよ。

つづく








posted by きゃすみん | Comment(0) | こころのはなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする